高殿アカリのゆるゆるブログ

映画、漫画、小説など心に刺さったものについて、ゆるゆると書いていくブログ。ときに、ちょっとしたエッセイ風味も。

韓ドラの面白いところ!

韓ドラの面白いところ!


そのいち

メインキャラが回を追うごとに好きになっていく。

最初はなんやこいつ?!ってなってたはずなのに、話数を重ねる毎に魅力的に映る。

可愛いとか綺麗、かっこいいだけじゃない不完全な人間くささがすごく好き。


そのに

ヒロインが全力。

ヒロインの表情が豊か。

顔の筋肉めちゃくちゃ使ってるんだなって思う。

怒ったり笑ったり泣いたり。

ふとした時は美人なのにコメディパートではしっかりおばちゃん顔になってたりもする。

もはや愛おしさを感じてくる。

ヒーローや当て馬もわりとそんな感じだけど、ヒロイン役によく思うかな。


そのさん

予告や振り返りが丁寧。

予告や振り返りで視聴者のわくわくを継続させてくる。

え?そのセリフいつ言うの?ってだけで1時間見れちゃうんだもん。

構成や演出で引っ張る能力がある。

基礎講習とかあるんですか?笑


結論、韓ドラっておもしれぇな。

『ハッピー・デス・デイ』はめちゃくちゃいいぞ!

ハッピー・デス・デイ!1も2も見た!
ずっっっと気になってたのでようやく!

いや、想像を超える面白さ!


ホラーあり、サスペンスあり、笑いあり、涙あり、成長あり、青春あり、仲間あり、恋愛あり。
なんでも揃っていてとても私好みだった。

 

1がホラー寄りだったので2作目は駄作になってるのかと思ったけど、全然そんなことない!
よりパワーアップしていて、ホラー作品というよりはSF作品に近いものがあった。泣いた。

 

『キューティーブロンド』と『It』と『インターステラー』を足して割った様な作品。
ストレンジャーシングス』ぽくもある。

 

続編出して欲しい気持ちもあるけど、2部作として秀逸すぎてもいるので、良いものを作るにはかなりハードルが高くなるかも。でも挑戦してみて欲しい!笑笑

 

はぁぁぁ、いい映画に出会ってしまったよ、これは。


金髪碧眼の美女がかっこよく、強く、成長していく様は何回でも観ていられるもの。

見終わったの寂しすぎる……😭

 

えもかった。

Vtuberコンテンツについての考察

Vtuberの存在はとても魅力的である。
その一番の魅力が、フィクションと現実の混合であることは言うまでもない。

しかし一方で、この混ざり具合が議論の火種になることも想像に容易くない。
なぜなら、一人一人の「フィクションと現実」に対する認識が違うからだ。

具体例として私の話をしよう。
私はフィクションに重きを置いて生活しているタイプの人間だ。

現実世界の云々よりフィクションこそが私を形作ると思っているし、フィクションがあるからこそ今を生きていられる。
だから、アニメやゲームというコンテンツが大好きな一方で、声優本人が表舞台に立つコンテンツは地雷だ。

声優という職業を貶めるつもりは一切ないが、声優本人の顔を知りたいと思わないし、仮に知ってしまった場合には途端にフィクションが現実に勝り、心が苦しくなる。

最近ではコンテンツの公式TwitterやHPから地雷を踏み抜かれることばかりなのでSNSを見る時は大体薄目で見ていることが多い。笑

つまり、私は「フィクション:現実=90:10」の割合で生きているのだ。

だからこそ、中の人や前世を詮索することがタブーとされるVtuberの世界は私に合っていたのかもしれない。

これまで、大概のコンテンツにおいてフィクションと現実は相容れないものであった。

小説や漫画、アニメなどはフィクションの圧勝であったし、舞台やドラマは現実の勝利となることが多かった。

ちなみに舞台やドラマにおける「現実」というのは、身体的あるいは物理的制限のことである。
つまり舞台俳優は汗をかくし、地球には常に重力があるということだ。
また、長期的な視点で行くと俳優だって日々歳をとっているのだ。

これらを踏まえた上でVtuberコンテンツに視点を戻そう。
そこにあるのはキャラクター、モデル、設定、ロールプレイング(所謂ガワ)のフィクションと、それに「今この瞬間」という命を吹き込む役割を与えられた中の人という現実だ。

Vtuberとは、ガワのフィクションと中の人の現実が多種多様に混ざり合った、グレーゾーンの創作様式なのである。

そしてこのグレーゾーンを渡り歩く姿こそが彼らの魅力なのだ。
フィクションが現実を凌駕するかもしれない、そう思わせてくれる貴重な存在なのである。

何よりVtuberという存在はフィクションと現実、両方の側面を持っていることから、どちらか一方の要素を強く持たせることも出来る。

がちがちにガワを固め、台本を用意すればそれは限りなくフィクション寄りのコンテンツになるだろう。
一方で、ほとんどロールプレイングをしないのならばそれは現実寄りのコンテンツだと言える。

フィクションと現実を何対何で創作するのかは、中の人とリスナーによって決定される。

中の人がフィクション寄りに創りたくても、そのコンテンツをリスナーが現実寄りに見てしまうのであれば、もしかしたら現実寄りのコンテンツになるかもしれない。

逆に中の人が現実として見て欲しくとも、リスナーがガワを強く捉え、キャラクターとして消費するのなら、それはフィクション寄りのコンテンツになるだろう。

つまり、そもそもがグレーゾーンなコンテンツであるにも関わらず、その上でグレーゾーン内を行ったり来たりしているのだ。
また、常にリスナーの属性も変動していくため、割合を固定することは困難である点も面白い。

特に最近の配信型Vtuberにはその性質が強く出ている。

流動的に変わっていくフィクションと現実の攻防戦こそ、Vtuberコンテンツそのものと言っていいかもしれない。

中の人だっていつかは老いる。
高い声が出せなくなる日もくる。
その一方で、ガワは基本的に変化できないのだ。

このどうしようもないほどの大きな溝こそが彼らの魅力であり、その溝なんてお構いなしにどこまでも刹那的に「今を楽しむ」エンタメなのだと思う。

Vtuberのコンテンツに触れている間、リスナーは今という現実を忘れて永遠を信じられるような気もするし、その一方で限りなく今が強調されているような気もするのではないだろうか。

その刹那的な快楽が、私たちを惹き付けて離さないのだ。

 

これからのVtuberコンテンツはより一層この側面が強くなるだろう。
だからこそ、中の人もリスナーもどちらにもバーチャル世界に対する認識の確立が試されている。

その認識は一人一人違っていいものだからこそ、一人一人が責任をもってスタンスを決めなくてはならない。
そうしなければ、きっと一番魅力的な「フィクションと現実の混合」そのものが中の人やリスナーを追い詰めるものに変わってしまうだろうから。

そうなったら本当にV界隈は終わると思う。
結局のところ、フィクションはどうしたって現実の苦しみの前には撤退せざるを得ないのだから。


最後に、Vtuberコンテンツの創造手法は今まであった既存のエンタメでは到底真似出来ない新しいものであることを明言しておく。

そして、これまで述べたVtuberコンテンツに対する私の認識を元にひとつの短編を書いてみた。
良かったらこちらも読んで貰えると嬉しい。

 

『ガワと僕らの終着駅』

https://kakuyomu.jp/works/1177354055178800523

『ぼくのエリ』は宗教的罪の物語だ。

こんにちは、高殿アカリです。

 

今回は『ぼくのエリ 200歳の少女』という作品をNetflixにて滑り込み視聴したので、レビューしていきます。

 

※現在、Netflixでは視聴出来ません。

 

概要後、ネタバレ含みますので未視聴の方はご注意ください。
また、感想部分のみを読みたい方は*マーク以降に記載していますので、そちらをご覧下さい。

 

ぼくのエリ 200歳の少女』は2008年に公開されたスウェーデンの映画です。


原題には「正しき者を招き入れよ」という意味のスウェーデン語が付与されています。
Netflixではスウェーデン語と日本語の音声、日本語の字幕が選択可能でした。

 

原作は『MORSE モールス』という2004年に刊行された小説になります。
確かに、映画ではモールス信号を使った演出が印象的でした。

 

原作者であるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが映画の脚本も担っています。
どうやらスウェーデンスティーブン・キングとも言われている方だそうです。

 

また2010年には『ぼくのエリ』のハリウッドリメイク版が全米にて公開されました。

『モールス』というタイトルにて2011年に日本でも公開されています。


原題は『Let Me In』ですので、スウェーデン版オリジナルの原題に近い意味になりますね。

リメイク版の主演の1人にクロエ・グレース・モレッツが起用されています。


当方、リメイク版は未視聴なので今度鑑賞したいと思います。

 

以上が概要となります。
下記より作品の感想・考察及び、十二分にネタバレを含みますので未視聴の方は自己責任でお願いします。

 

 

*********************

 


この作品を一言で表すと『罪の物語』だと思う。
すごくすごく好みだった。

 

「私が女の子じゃなくても?」の台詞を何回も問いかけるということは男の吸血鬼なのだろう、と軽く理解は出来ていたが、それでも、あのぼかし演出は野暮だった。

 

台詞だけで察してもらえることを前提にしていたのかもしれない。

 

『ぼくのエリ』の特徴として、同性愛がたくさん見受けられることが挙げられる。

 

おじさんとエリ(ここにはロリコン的要素もある)、オスカーとエリ、オスカーパパとその恋人(離婚原因でもあったのだろう)、いじめっ子とオスカー(好きな子をいじめてしまう感じでもあったし、同性愛というタブーに魅了されてしまったが故の反発のようにも見えた)。

 

反対にエリ側から見ればオスカーに対して、老人×少年というタブーを犯していたのかもしれない。

 

そう考えるとエリは少年側でもあり、老人側でもあったということになる。
搾取される側でもあり、搾取する側でもある。

 

200歳ということを含んで考えると、エリの世話をしてた人との出会いも気になるところだ。

オスカーみたいに少年時代にエリと出会っていたのだとすれば、もしかしたら唯一エリだけが強者なのかもしれない。


一見、エリの世話係×エリの構造に見えるが、エリ×エリの世話係だったのかもしれない。

 

だから、最期はエリにその身を差し出した。
エリもほとんど何の躊躇いもなくその首に噛み付いた。

 

まるで契約書を交わしていたかのような。
それもまた一種の禁断的関係だろう。

 

これらのことから、この作品は全体として宗教的タブーな物語であると言えるだろう。

 

そもそも吸血鬼の存在が既に神とは正反対に位置していることも考慮し、これは(宗教的)罪のお話だと私は思った。

 

ラストシーンが特に好きなのだけれど、だからあれは逃避行なんだろう。
永遠に続く罪から目を背けて一緒に逃げよう、って事なのではないだろうか。

 

また、エリに噛まれた女性の視点では血液への欲望に打ち勝ち、罪を背負わないように消滅するしか無かったということが分かる。

 

それは愛する人を守る行為でもあって、そこがエリやオスカーとの違いだ。
そしてそれこそが大人と子供の違いでもあり、一重に自我の有無によると言えるのかもしれない。

 

まぁ自殺的行為という罪はあるのだが。
逆に言うと、最大の罪を犯してでも悪魔にはなりたくなかった、人間のままで居たかった、ということなのかもしれない。

 

色々と考察が捗る作品だ。
そういう意味でも『ぼくのエリ』は素晴らしいと思う。

 

また、ただの子供が大きな力(物理的にも金銭的にも)を得ていることへのアンバランスさと危うさを終始非常に感じる作品でもあったことを一言添えておく。

 


リメイク版はクロエがヴァンパイア役ということであるが、彼女の持つ女性らしさは果たしてどう扱われているのだろうか。

 

そういう視点においては、役者を知らなかったため、性別を判定しにくかったスウェーデン版『ぼくのエリ』は良かったのかもしれない。

 

何はともあれ、リメイク版も非常に楽しみである。
原作を先に読むか、リメイク版を観るか、現在絶賛悩んでいるところなのだった。

『オールドファッションカップケーキ』を、たべてみた。

こんにちは、高殿アカリです。

 

今回は『オールドファッションカップケーキ』(著:佐岸 左岸)というBL漫画を紹介します。
こちらは2020年1月に大洋図書さんより刊行されています。

 

まず、本作の最大の特徴として私が感じたのは「BLなのにBLじゃない!」というところです。
その為、BLが得意じゃない方にも興味を持っていただけたら嬉しいです。

 

とは言え、特殊なBLジャンル……苦手な方は自己責任でお願いします……。


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変わりばえのしない毎日を過ごす野末(39歳独身)と、そんな上司のことが気になる野末の部下・外川(29歳独身)の物語。

 

野末は優しく愛嬌もあり、仕事もできる。
しかし、当の本人は昇進意欲もなければ、結婚願望もなく……このままで良いんだよ……と何だかつまらない毎日を過ごしている。

 

そんな野末の部下である外川は無愛想だけど、真っ直ぐな好青年。
一途に野末を慕っているのが見ていていじらしい。

 


この作品はとにかく間が良い。
ゆったりと時間が流れていってるのが感じ取れる。

 

コマ割りが淡々と、味気ないほどにシンプルな分、細かい背景や小物のアップシーンなどが入っており、それが日常感を程よく醸し出している。(そしてお洒落。)

 

それらの演出から「変わりばえのしない毎日」というものをテーマにしてるのがよく分かる。
読者は何の違和感もなく、野末視点の日常に入り込んでいけるだろう。

 

そのうち、野末の日常には外川という他者が介入してくるようになる。
しかし、そこでもコマ割りは変わらない。

 

相変わらず、白々しいまでにどこまでもシンプルなのだ。
それは野末が外川に恋をしても変わらなかった。

 

寧ろ劇的に変わることのないコマ割りにより、読者は野末がゆったりとじわじわと恋に落ちていったんだな……ということを感じ取るだろう。

また、外川の存在自体が日常の一部として浸透していったんだなぁ……と感慨深くもなるだろう。

 

すると、変わりばえのしない毎日の「つまらなさ」を表していたはずのシンプルな表現こそが、いつの間にか、大切な人と過ごす毎日の「かけがえのなさ」の表れへと変化していっていることに気付かされる。

 

コマ割りが変化しないからこそ、得られた感動に私は脱帽した。

 

この作品は、BL漫画という特殊なジャンルに存在しながらも、その全てで表現しているのは「大切な人と過ごす日々のかけがえのなさ」というとても普遍的なものなのだ。

 

そして、それが無音寄りな演出で丁寧に描かれている。
この漫画を読み進めながら、私たちが聴かされるのは派手なBGMではなく、彼らの生活音なのだ。

 

何故ならそれこそが、"野末の日常"なのだから。

 

BL漫画にありがちなエロいシーンがほとんどないにも関わらず、潜在的なエロさを内包しているように感じるのはこのリアルさのせいだろう。

 

永遠にこの2人を見ていたい気持ちにさせられる。
そんな泣きたくなるくらい愛おしくて優しい物語なのだ。

 

それは幼馴染の結婚式に流れるホームビデオを観ているような感覚で読者の内側に落ちてくる。

私たちはページを読み進める毎にゆったりと、しっとりと、人生そのものの片鱗を存分に味わうだろう。

 

大切な人と過ごす毎日は、例え刺激的でなくともこんなにも愛おしく優しく、そして幸福なものなのだ、と。

 

人生の意味にまで考えを巡らすことが出来る作品なので、BLジャンルにとらわれず、色んな方に読んで欲しい。

 

『オールドファッションカップケーキ』はBLジャンルの良さを含みつつも、そのジャンルを超えた。
そして、ジャンルの枠を超越した作品ほど感動するものはない。

 

この佐岸先生の天才的なまでのバランス感覚に鳥肌が立った。
出会ってくれてありがとう、出会わせてくれてありがとう。

 

佐岸先生に最大の敬意と感謝と愛を込めて。

 

 

あぁ、願う事なら。
彼らの一生分のホームビデオを鑑賞していたいなぁ……笑

 


追伸:
続編も決定しているそうです。たのしみ!

田村由美作品 ー『7SEEDS』に魅せられて

田村由美先生の『BASARA』を完読後、今度は『7SEEDS』を読み始めた。

 

ジャンルはSFサバイバル群像劇、といっところか。大好物だった。

 

海外ドラマの『ウォーキング・デッド』や『the100』などといった、サバイバル系が好きな人なら絶対にハマる。

 

映画で言うと『ザ・サイレンス』『2012』『オデッセイ』『デイ・アフター・トゥモロー』(要するにSF系サバイバル世界)あたりが好きな人も楽しめると思う。

 

少女漫画と侮るなかれ。
凄く緻密に練られた作品なのである。

 

Netflixにアニメ版もあるが、あらすじを見たところ、かなりダイジェスト版な印象を受けたのでここでは原作の方をお勧めしておく。

 

『BASARA』がシリアスな雰囲気の為に読むのに勇気がいる作品である一方で『7SEEDS』に関してはサバイバル特有の、続きが気になる!という演出によりどんどんと読み進めてしまうのが特徴的だ。

 

この2つの作品は舞台や作風が全く異なっているにも関わらず、物語の中で描かれているテーマは一貫している。
それこそが田村由美作品の特筆すべき要素である。

 

田村由美作品は常に私たち読者に問いかけているのだ。

 

今ここで、私たちは如何にして生きていくのか。
「生きる」というそれ自体の在り方とは何であろうか。

 

あちらこちらに散りばめられた「生命」への敬意と、それに対する純粋たる疑問符。

 

私たちは全ての登場人物を通して、彼らそれぞれの死生観や人生観を魅せられる。
と同時に、その行為は自らの死生観や人生観をも振り返る行為、あるいは再認識する行為となって心の内に積もっていく。

 

そして、物語軸や世界線を通して見えてくるのは(あるいは魅せられるのは)、自然としての地球、地球としての自然、宇宙の中の摂理、そんな生物学的であり考古学的な地球への愛ある眼差しだ。

 

それらを通して、私たちは「今を生きるここ」について、痛切な優しさを伴って実感せざるを得なくなる。

これこそが田村由美作品の真髄であろう。

 

7SEEDS』にもその眼差しは受け継がれており、この地球上に在る紛れもない事実たちをよくよく調べて描かれていることが分かる。

 

その為、物語性を維持するために展開が飛躍している場面でも、「未来の地球」という設定そのものがしっかりと現実として存在しているので、フィクションなのに何処かリアルですらある。

 

登場人物たちが生き生きしているのは勿論のこと、田村由美作品に至っては地球そのものが「生きている」のだ。


それはかつて手塚治虫先生の『火の鳥』で得た感覚にもどこか等しく、五十嵐大介先生の『海獣の子供』で得た感覚にもどこか似通っているものがある。

 

それでいて、忘れてはならないのがジャンルである。
少女漫画として成功を収める為に必要な、10代の女の子たちを飽きさせない手法もしっかりと、それでいて違和感を覚えない程度に張り巡らされているのだ。

場面転換や舞台装置、恋愛模様などの演出は文句のつけようもなく流石である。

 

田村由美作品は性別問わずに読める作品であり、少女漫画を主軸としながらもそれを忘れてしまうほどに濃密で大胆な仕掛けと繊細かつ確固としたリアリティさが絶妙なバランスで成立している作品とも言えるだろう。

 

是非、「フラワーコミックス」のラベルに躊躇することなく、多くの方々に手を伸ばして欲しい。
その先には、広大な世界線と強烈な物語体験が待っているのだから。

さのさのこ実録〜1周年に添えて〜

 

去年の今頃、実は精神的に相当やばくて。苦しくて。辛くて。PS4も持っていなくて。ただただ無情に過ぎていく毎日が嫌で嫌でしょうがなかった。

 

毎夜の如く死にたくって、だけどそうするのも馬鹿らしくって、何の為に生きているのか分からなかった。
Taylorのライブも未来には控えていたけれど、それすらストッパーにはならない気がしていた。

 

そして2018年10月7日にゲーム実況を始めた。スマホしかなかったから、スマホのゲームを収録して、何度もやり直して、お喋りも下手で、録画ミスも沢山して、調べて失敗してのトライ&エラーを繰り返した。

 

録画に成功した後、投稿するべきかどうかを悩みながらスマホで編集をした。これもまたトライ&エラーの繰り返しだった。
編集が終わった頃には投稿するべきだと思った。時間と労力の無駄遣いにはしたくなかったから。

 

そのあと、11月にPS4を購入した。FPSゲームをひっそりと練習する傍ら、スマホゲームの収録と編集。すごくすごく肩肘を張っていたし、すごくすごく頑張っていたと思う。

 

それから、少しずつ視聴者さんが増えてきて、また減って、増えて、減って、を繰り返してもう一年が過ぎた。

とても早かったと思う。主観的には沢山のことをやってきたし、これからも沢山やりたいことがある。やりかけのこともある。

 

この一年間で見かけなくなってしまった人も沢山いる。
そうやって43人までやってきたんだなぁ。
生きて、これたんだなぁ。

 

一年前は、本当の本当にどん底で。
たぶん、人生最大のどん底で。
今思うと些細なことの積み重ねだったりもするんだけど、一年前は全てがどん底に見えて。

 

そんなとき、ゲームに救われた。ゲーム実況に救われた。
私、生きていけるなぁって誰も見ていない配信をひとり深夜に垂れ流しながら思っていたよ。

 

あの時、死ななくて良かったなぁ。
これからも、死にたくないよなぁ。

 

死にたくっても馬鹿らしくて死ねない人間だけど、死のうともしない人間だけど、それでも「死にたい」と思わず生きられるのはとてもとても幸せなんだよ。

 

ゲーム実況は私に生きる言い訳を与えてくれた。そして私は強くなった。
強くてNEW GAME、まだまだ続きます。

 

 

追伸:

今は見ていない視聴者さんも沢山いるからこの場を借りても大して合理的ではないんだけれども、ゲーム実況を通して出会えた皆さん一年間本当に本当にありがとう。

 

そして今見てくださっている視聴者さんは、これからも「さのさのこ」をよろしくお願いします。ついでにM子ちゃんも。笑

 

お互い無理のないよう自由に気ままに生きていこうね。