『ぼくのエリ』は宗教的罪の物語だ。
こんにちは、高殿アカリです。
今回は『ぼくのエリ 200歳の少女』という作品をNetflixにて滑り込み視聴したので、レビューしていきます。
※現在、Netflixでは視聴出来ません。
概要後、ネタバレ含みますので未視聴の方はご注意ください。
また、感想部分のみを読みたい方は*マーク以降に記載していますので、そちらをご覧下さい。
『ぼくのエリ 200歳の少女』は2008年に公開されたスウェーデンの映画です。
原題には「正しき者を招き入れよ」という意味のスウェーデン語が付与されています。
Netflixではスウェーデン語と日本語の音声、日本語の字幕が選択可能でした。
原作は『MORSE モールス』という2004年に刊行された小説になります。
確かに、映画ではモールス信号を使った演出が印象的でした。
原作者であるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが映画の脚本も担っています。
どうやらスウェーデンのスティーブン・キングとも言われている方だそうです。
また2010年には『ぼくのエリ』のハリウッドリメイク版が全米にて公開されました。
『モールス』というタイトルにて2011年に日本でも公開されています。
原題は『Let Me In』ですので、スウェーデン版オリジナルの原題に近い意味になりますね。
リメイク版の主演の1人にクロエ・グレース・モレッツが起用されています。
当方、リメイク版は未視聴なので今度鑑賞したいと思います。
以上が概要となります。
下記より作品の感想・考察及び、十二分にネタバレを含みますので未視聴の方は自己責任でお願いします。
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この作品を一言で表すと『罪の物語』だと思う。
すごくすごく好みだった。
「私が女の子じゃなくても?」の台詞を何回も問いかけるということは男の吸血鬼なのだろう、と軽く理解は出来ていたが、それでも、あのぼかし演出は野暮だった。
台詞だけで察してもらえることを前提にしていたのかもしれない。
『ぼくのエリ』の特徴として、同性愛がたくさん見受けられることが挙げられる。
おじさんとエリ(ここにはロリコン的要素もある)、オスカーとエリ、オスカーパパとその恋人(離婚原因でもあったのだろう)、いじめっ子とオスカー(好きな子をいじめてしまう感じでもあったし、同性愛というタブーに魅了されてしまったが故の反発のようにも見えた)。
反対にエリ側から見ればオスカーに対して、老人×少年というタブーを犯していたのかもしれない。
そう考えるとエリは少年側でもあり、老人側でもあったということになる。
搾取される側でもあり、搾取する側でもある。
200歳ということを含んで考えると、エリの世話をしてた人との出会いも気になるところだ。
オスカーみたいに少年時代にエリと出会っていたのだとすれば、もしかしたら唯一エリだけが強者なのかもしれない。
一見、エリの世話係×エリの構造に見えるが、エリ×エリの世話係だったのかもしれない。
だから、最期はエリにその身を差し出した。
エリもほとんど何の躊躇いもなくその首に噛み付いた。
まるで契約書を交わしていたかのような。
それもまた一種の禁断的関係だろう。
これらのことから、この作品は全体として宗教的タブーな物語であると言えるだろう。
そもそも吸血鬼の存在が既に神とは正反対に位置していることも考慮し、これは(宗教的)罪のお話だと私は思った。
ラストシーンが特に好きなのだけれど、だからあれは逃避行なんだろう。
永遠に続く罪から目を背けて一緒に逃げよう、って事なのではないだろうか。
また、エリに噛まれた女性の視点では血液への欲望に打ち勝ち、罪を背負わないように消滅するしか無かったということが分かる。
それは愛する人を守る行為でもあって、そこがエリやオスカーとの違いだ。
そしてそれこそが大人と子供の違いでもあり、一重に自我の有無によると言えるのかもしれない。
まぁ自殺的行為という罪はあるのだが。
逆に言うと、最大の罪を犯してでも悪魔にはなりたくなかった、人間のままで居たかった、ということなのかもしれない。
色々と考察が捗る作品だ。
そういう意味でも『ぼくのエリ』は素晴らしいと思う。
また、ただの子供が大きな力(物理的にも金銭的にも)を得ていることへのアンバランスさと危うさを終始非常に感じる作品でもあったことを一言添えておく。
リメイク版はクロエがヴァンパイア役ということであるが、彼女の持つ女性らしさは果たしてどう扱われているのだろうか。
そういう視点においては、役者を知らなかったため、性別を判定しにくかったスウェーデン版『ぼくのエリ』は良かったのかもしれない。
何はともあれ、リメイク版も非常に楽しみである。
原作を先に読むか、リメイク版を観るか、現在絶賛悩んでいるところなのだった。