ことば
こんにちは、高殿アカリ(@akari_takadono)です。
今日は「ことば」についてお話していきます。
なので、もしかしたら「こんにちは、遠藤さや(@END0_saya)です。」と名乗った方が正確なのかもしれません。
が、ブログ主は高殿アカリですので、このままで行きます。笑
私が詩を書き始めてから、今年で10年が経ちました。
その間に、遠藤さや名義でいくつかの詩雑誌に作品を掲載していただいたり、小さな賞をいくつかいただいたり、そんな些細ながらも色々なことがありました。
そして、この10周年という機会に「ことば」について、普段私が考えていることをまとめるがてら、約1ヶ月ぶりにブログを更新しようと思った次第です。
前置きが長くなりました。
さて、本題に入っていきましょう。
「ことば」というものは、普段の生活で誰もが1度は触れたことがあるであろう、有り触れた存在です。
見たり、聞いたり、感じたり。
その「ことば」との関わり方は様々ではありますが、基本的にはどこにでも転がっているものです。
そして、その「ことば」と1番遊ぶことの出来る手段が「詩」というものです。
それが楽しくて私は10年も詩を書き続けてきました。
そして、これからも続けていくのでしょう。
「ことば」には、様々な側面があります。
知識や情報を伝えるための「ことば」、物語るための「ことば」、そして遊ぶための「ことば」など、実に多様性を秘めています。
私は「ことば」が大好きです。
特に日本語の「ことば」が好きです。
50個の見た目と音を基本として、カタカナ、漢字、濁音、半濁音など実に多様な広がりを見せてくれるからです。
その中でも、聴く「ことば」と見る「ことば」がありますが、私は見る「ことば」が好みです。
文法として意味をなしていなくとも、見た目としての華やかさがあったり、どことなく哀しい気持ちにさせられたりする、それが見る「ことば」の魅力でしょう。
そういう「ことば」の組み合わせを、見たり創ったりすることが1番に出来るのが「詩」という媒体です。
例えば「一人部屋の/玩具が啼いて」(「六畳一間」より)だとか、「鼻歌交じりに/水たまりを超えた明日」(「梅雨の季節」より)といったものもあります。
自分の作品で特に好きな部分ということなので、あまり伝わっていないかもしれませんが。笑
「詩」は、その伝わらない「何か」を伝えようとするために、あるいは表現しようとするために、書かれています。
その「何か」を、人は「ポエジー」と呼びます。
ふと感じたあの時のその感じ。
こそあど言葉がたくさん詰まった、感覚や感性を「ことば」は自ら表現してくれません。
「詩」の「ことば」は、ゆっくりと深く生活に根ざしたその根底で、誰もの心にあるものです。
それを表現することは、飽くなき「ことば」への挑戦であり、同時に「ことば」との対話なのだと思います。
同じ文字を使っても、句読点ひとつで意味が変わる。漢字を変えるだけで印象が変わる。
国語では教えてもらわなかった言葉と言葉の組み合わせを実験する。
「詩」は、まさしくそのどの部分をとっても「ことば」自体へのクリエイトなのです。
それは何も難しいことではなく、有り触れた毎日の中にあります。
新聞の見出し、広告のキャッチコピー、新年の書き初め、物語るお話の中、絵本の読み聞かせ、パソコンのフォント機能、手書きのラブレター、商品のパッケージ、、、それではまた、どこかで。