ゲーム実況初心者が“ゲーム実況”について語ってみた。
冬は調子の良い日が多い。
それは何も、私が冬の季節を好きだということだけが理由ではないだろう。
高殿アカリ(@akari_takadono)とは別にさのさのこ(@Sanoko_Sano)という名前で、ゲーム実況と呼ばれるものをYouTubeを中心に投稿し始めてから、2ヶ月ほどが過ぎた。
そのことが大いに関係していると思う、きっと。たぶん。
ゲーム実況というものは、ゲームをプレイしながらそれを実況(お喋り)することを言い、大概の場合において、その様子は動画としてYouTubeやTwitch、ニコニコ動画などの動画投稿サイトにて公開される。
ゲーム実況には大きくわけて2つのやり方がある。録画と生放送(配信)である。
録画というのは、ゲーム画面とゲーム音、(声入りで実況する場合は)自分の声などを録画し、編集し、投稿するものである。
一方、生放送(配信)というのは、配信者がリアルタイムでゲーム実況をしながら動画投稿サイトにもその様子をあげるというものである。
実況の仕方も3つほどあり、自分の生の声で実況する方法、機械の声で実況させる方法、字幕で実況する方法が主にある。
その他、実況なしのプレイ動画というものも存在している。
いくつかスタイルのあるゲーム実況の中で、私は普段、生放送(声あり)のゲーム実況を中心に行っている。
ほんのたまに、録画したゲーム実況動画をアップロードすることもある。
そんな動画や生放送を2ヶ月ほど、ほとんど毎日のように行ってきて、いくつか感じたこと、考えたことがある。
それをこれから書いていきたいと思う。
動画を投稿し始めてから、特に生放送を配信してから、度胸と自信がついたと思う。
私はゲームが下手であるのだが、やはり下手は下手でも下手なりに「生放送で下手すぎるプレイは駄目だろう」とか、「変なこと喋っちゃったらどうしよう」とか、そんなプレッシャーを自分にかけてしまうのである。
もちろん、それでゲームが上手くなったり、ゲーム実況が楽しくなったりするのなら問題はないと思う。
ただ、私はそういう人間ではなかった。
プレッシャーはストレスの元になるし、下手するとゲーム実況を嫌いになる可能性があった(下手だけに)。
だから、余計なプレッシャーはなるべく削ぎたかった。
という訳で、生放送において私は考えることを放棄した。
ただゲームを、ゲーム実況というものを、楽しむ。それだけに集中してみた。
そもそも、“面白いゲーム実況”をしたいからという理由でゲーム実況を行なっているわけではない。
“ゲーム実況”をしたいから、ゲーム実況をしているのである。
それが面白くあろうが、面白くなかろうが、どちらでも構わない。
その判断は視聴者一人一人がするものである。
......少し話が逸れてきた。
兎にも角にも、そういう一種の開き直りを持って、生放送に挑んだ。
すると、自分でも驚くくらいの度胸や自信がついてきた。
そのことを現在、プライベートでも実感している。
(※ゲーム実況も仕事ではないのでプライベートなんだけども。笑)
だから、調子の良い日が多い。
悩む必要のないことには無駄にくよくよしなくなったし、もともとのポテンシャルとして自信というものが標準装備である人に対しても無駄に卑屈になったりしなくなった。
無駄がはぶかれてきたのだ。
そしてこの、無駄のない身体のなんと軽いことか。
また、ゲーム実況は視聴者の生の声を聞くこともできる。
私は元々、詩や小説を書いているのだが、
詩や小説において感想を貰えることは滅多になく、お気に入りの数、しおりの数、読者数、アクセス解析、順位など、読者の声を判断するためには基本的に数字を気にしなくてはならなかった。
小説では、Web小説において読者から感想を貰えることがたまにあるので、ただ私の小説が感想を送るほどではないと判断されているだけだ、と慰めることもできる。
しかし、詩は残酷だった。
毎月毎月、各詩雑誌に自分の作品を送っては、自分の作品が掲載されることを祈り、毎月毎月、必死に発売された各詩雑誌の読者投稿ページを眺めるのである。
掲載されていれば、選者の意見や批評が書かれているが、掲載されていなければそれまでだった。
(それでも約10年もの間、詩を書くことを辞めなかったのは詩を書かねば生きていけぬという理由があったからなのだが、それはまた別の話である...)
そんな殺伐とした世界で生きてきた私にとって、自分のゲームに対する反応にコメントがもらえることや、リアルタイムで私の配信を見てくれている人たちがいることは、私の承認欲求をほんの少しだけ満たした。
生の声が聞こえることが、こんなにも心地の良いことだったのか、こんなにも活力になることだったのか、と初めて思った。
それでも私の承認欲求は完全に満たされていない。
それも至極当然のことであろう。
ゲーム実況というのは、ゲームそのものがあって初めて成立するものであるのだから。
私の実況など取るに足りないものなのだ。
その感謝と喜びと、そして多大なる敬意を忘れずに、これからもプレイしていきたい。
それではまた、次の動画で。
どこまでゆくの。だれまでゆくの。【eri 東京個展7『手紙』】
こんにちは。
高殿アカリ(@akari_takadono)です。
今日は、12月8日より開催されているeri(@silent_letter_)さんの東京個展7『手紙』に行ってきました!
去年よりも落ち着いていたのか、個展開場の扉を開けるまでは比較的穏やかな気持ちでした。
しかし、扉を開けたあと、迎える原画たちに私の呼吸は止まりました。
心臓がバクバクと鳴り響き、震える手を必死に抑えながら、溢れそうになる涙を必死に止めながら、私は愛おしい原画たち一人一人に会いに行きました。
どの子も可愛くて切なくて、愛おしくて生きていて、透明で淡くて、儚くて力強い。
その堂々たる彼らの圧倒的存在感に、私は自らの無力を悟りました。
死んでるみたいに生きている私よりも、遥かにしっかりとみずみずしく、彼らは生きていました。
ポスターやらポストカードやら画集やらであんなにも見飽きていたと思っていた子達も、やっぱり生きていて。
私は自分が恥ずかしくなりました。
原画に勝る迫力はないんだなと、改めて思わされました。
(そうは言っても、持っていないポストカードたちはすべて購入したんですがね、うふふ笑)
今回の個展は新作と過去作の入り交じる、素敵な空間でした。
季節を食べた去年とは違い、今回は生命そのものを呑み込まされた気がしています。
一人一人の前に立つと、みんながみんな物凄い吸引力をもってして、私をその場に引き留めようとしてきました。
それもあの手この手と多種多様な手段で。
「私を見て!」
「いや、私よ!!」
「あの、、、私も、いるわよ、、、?」
そんな言葉たちが聞こえてきそうでした。
もう、みんな大好きだから!!!!とひとり心の中で悶えていました。笑笑
また、今年はeriさんの活動が10周年目という節目の年で、しかも個展のテーマが『手紙』という!!
この嬉しさを私は噛み締めながら、足を運んできたのです。
本当に本当に10周年、おめでとうございます!!
さらに、たっっくさん、ご本人様やお手伝い様(テプスパ様)とお話させていただけて、本当に嬉しかったです。楽しかったです。
色々なわがまま(便箋一枚もらっていいですか、ブログに今日の事書いてもいいですか、サインくださいetc.....)も快く承諾してくださり、本当にありがとうございました!!
また、イベントでもお会いしたいですし、必ずテプスパ様の方へも(長野県松本市)足を運びたいと思います!!
では最後になりますが、ちょっとした(私的)プチハプニングをお話します。笑
御二方とご談笑したあと、5850円分の彼らを購入したのですが、自分の財布を見ると6000円しかなく、ひとりで焦っていました。
何たる不覚!
まさかの準備不足!!
お昼ご飯を食べてから行かなくてよかった、と心底思いました。笑
(当初はお昼ご飯を食べてから向かうつもりだったのですが、完全に忘れていた。笑 ぐっじょぶ。笑笑)
そのあと、なけなしの小銭を握り締め、駅前のラーメン屋さんに入りました。
(実は去年も個展の後にそこでご飯を食べました。)
ちゃりんちゃりん、と小銭を払って、財布を確認。
私の帰りの所持金は85円でした。
(小学生レベルの金額www)
めでたし、めでたし。\(^^)/
兎にも角にも、素敵な空間。
細部まで描き込まれた原画たち。
紙飛行機が飛んできて、
僕達は手紙を受け取った。
僕達は手紙を差し出した。
宛先はどこ?
差出人はだれ?
どこまでゆくの。
だれまでゆくの。
流れる時間が過ぎ去るものだと、
知ってはいても。
また、会いにゆきたい。
以下、個展の詳細です。
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東京個展7『手紙』
・12/8日(土)〜11日(火)
・a.s antiques gallery
(代官山駅から徒歩2分、恵比寿駅から徒歩7分)
・OPEN 12:00 - 20:00
(最終日は18:00まで)
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それではまた、どこかで。
映画『 音タコ』が物凄く刺さった話。
こんにちは、高殿アカリ(@akari_takadono)です。
今回は2018年10月12日に公開された『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』(公式サイト様→ http://onryoagero-tako.com/sp/ )のレビューをしていきたいなと思います。
結論から言うと、賛否両論の別れる作品だな、というところです。
良くも悪くもB級映画っぽさがあります。
綺麗で整っていて、ドラマチックな作品が見たい方にはおすすめできません。
あと、カメラワークも凄く酔うので、画面酔いしやすい方はお気をつけください。
私個人としては、めちゃくちゃ性癖に刺さった映画でした。
大物俳優たちをB級映画っぽさで使うところも、アマチュアっぽいカメラワークや演出も、ちょっと昔のよく分からない小ネタも、全部全部が堪らなかったです、はい。笑
B級映画っぽさで大物俳優を起用する、という点では相武紗季さん主演のホラーコメディ映画『NECK』に似てるなぁとも思いました。
もちろん、この映画も大好きです。笑
話を戻します。
『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』、通称「音タコ」のあらすじは以下の通りです。
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声の小さい路上ミュージシャンのふうか(吉岡里帆)は、ある日人気ロックシンガーのシン(阿部サダヲ)と出会うことで、自分の想いを叫ぶことができるようになっていきます。
しかし、シンにはある秘密(声帯ドーピング)があってーーーーー。
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あらすじだけを聞くと、本当に綺麗に終わる作品のような気もしますね。笑
でも、ぶっ飛んでます。
この作品はぶっ飛んでいます。
演出、内容、小ネタ、演技、世界観、ストーリー、エンディング、その全てがぶっ飛んでいます。
公式Twitterの方でエンディングを作詞作曲したあいみょんさんと主演の吉岡里帆さんのツーショットインタビューがあり、そこで映画を見たあいみょんさんが「ジェットコースターのような作品だった」と発言しています。
まさしく、その言葉のごとく、「ジェットコースター」みたいな映画でした。
テンポもよく、ころころと話が進んでいくので見ていて飽きませんでした。
(ただし、邦画が好きな人にはテンポが早すぎるかもしれません)
また、微妙に雑なCG演出もあり、それがまたB級映画っぽさを醸し出していましたね。
あの感じがたまりません。
こういう映画がある限り、邦画もまだまだ大丈夫だな、と(勝手ながら)私は確信しております。
「楽しい。」と素直に思わせてくれる邦画は本当に久しぶりでした。
好きな人はとことん好きになってしまう映画です。
反対に、ハマらない人にはとことんハマらない映画です。笑
映画自体がとても尖っており、私はそれがとても好きで、好きで、好きでした。
こういう作品をきっと待っていたんだ!、そう思わせてくれました。
そんな中毒性のある映画です。
何度も何度も見たくなるので困りますね。笑笑
また、音タコのエンディング曲「体の芯からまだ燃えているんだ」のMVがただ今GYAO!にて公開されています。
こちらも、衝撃のラストシーンを見たあと、再び見てみるとまた違った良さがあって味わい深いです。
だから、こんな演出のMVなのか、こんな歌詞なのか、こんな歌い方なのか、全てが繋がっていきます。
MVの世界観と映画の世界観は一見すると全く違うはずなのに、MVを見れば見るほど映画の世界観とリンクしていることに気付かされます。
とても手口が巧妙ですね。笑
また、この作品は映画関係者の誰かが歌を妥協した時点で駄目になっていた作品だとも思います。
どれだけB級映画っぽさがあったとしても、「あのクオリティの歌がある」という一点が「音タコはB級映画ではない」という絶妙なバランスを醸し出しています。
いわゆる、この作品における歌は一種の引き締め役のようなものです。
一切の妥協も許されなかったのだろうな、と推測できる本気のクオリティが感じられるMVも是非、ご覧下さい。
個人的には、阿部サダヲさんがあそこまで歌が上手いとも思っていませんでしたし、あそこまできちんと歌うパートがあるとも思っていませんでした。
誰一人日和ることなく、挑戦した作品となっているのだなぁとしみじみしています。
恐らく公開終了前にもう一度見ることになるとは思いますが、それまでの間MVを無限ループする日々がもうしばらく続きそうです。笑
(何故、GYAO!にはループ機能がないんだ!!)
また、音タコ映画関係者の皆様に溢れんばかりの感謝と尊敬を込めて。
この作品に出会わせてくれてありがとうございました!
*************
ちなみに、一番好きな台詞は「やらない理由を探すんじゃねぇ!」ですね。
たぶん、この映画を見た人みんなに刺さると思います。笑
それではまた、どこかで。
推しとマンツーマンでぶつかり稽古をしたい!
お久しぶりです。
高殿アカリ(@akari_takadono)です。
今回は推しを推す為の気力やら体力やらがない!という愚痴?回です。笑
私はもともと運動音痴(ついでにただの音痴でもあります。が、方向音痴ではありません。笑)の為、全くと言っていいほど体力がありません。
そんな中、推しを推したい!その気力、精神力だけで、イベントやライブといった課外活動に勤しむ毎日でした。
つまり、気力が無くなれば必然的に体力も無くなるという身体のシステムをしておるということです。
最近、本当にその気力というものが欠如していて、ですね。
それが悔しくもあり、悲しくもあるという現状なんです。
推しを推せなくなったとか、推しを愛せなくなったというわけではなく、推しを推す為に外に広げていくという所謂、対外的オタ活全般がしんどくなってきたんですね...。
だからこそ、余計に悲しいんです。
理由はね、幾つか考えられて。
まず、推しを推しすぎたことによる飽和状態ってのがあります。
これによって、推しを推すという行為自体を冷静に考え始めてしまったんですね。
推しを推すことに意味なんてあるのか?
ただの自己満ではないのか?
そんなエゴで推してもいいのか?
それなら、よっぽどミーハーとして浅瀬でぱちゃぱちゃ推しと戯れる方が健全ではないだろうか?
そんな面倒くさいことを思い始めてしまったわけですよ。
「推しの為に」、この言葉ほどエゴエゴしている言葉はないですもんね。
「君の為に」「貴方の為に」、そういう言葉を吐く恋人ほど身勝手で信用のないパートナーはいません。(※偏見です。笑)
それと同じことです。
「推しの為に」、その向こう側に透けて見える「自分の為に」という思い。
じゃあ、本当に推しを推すことは「自分の為」なのか??
ここでまたひとつ疑問です。
自分の「何」の為なのか。
真のオタッキー様方は迷わず答えるでしょう。
「推しを推すことに意味などない」
「心の平安のため」
「精神安定剤」...などなど。
こんな初歩の初歩で躓く私は、果たして本当に彼らを愛せているのだろうか?
でも、私には私だけの推しと関わり合ってきた歴史があり、思い出がある。
そんな疑問と反発が渦巻く心の奥。
そうなんです。
結局は、推しと私は一対一の関係でしかありえないのです。
だけど、実際には周りの同じ界隈の方達との愛し方、推し方の差を感じて、どうしたって優劣を付けたがる自分がいる。
そんなことしたって意味などないのに...。
私はただ、何者にも振り回されることなく、推しを推す、ただその事だけを突き詰めていきたいのに...。
恐らく、イベント参加等の課外活動としてのオタク活動に行く気力がないだけであり、一人っきりの部屋でぼーっと推したちと戯れている分にはめちゃくちゃ幸せだし、実際今の私にはそれが必要なんだと思います。
誰にも何にも振り回されることのなく。
この思いは一重に、私の意思の弱さが関係しているとは思いますが、影響を受けてしまうことが不可避なら、始めっからシャットダウンしようじゃないか!
そのような結論に至りました。
というわけで、明日のイベント一般参加は急遽取りやめ、一人で黙々とオタ活に励みます!笑
みなさんも、素敵な祝日をお過ごしください。
それぞれの好きなものを、それぞれが好き好きに楽しみながら、愛しながら、そうしてまた地球は回っていくのです!笑
(ただ、推しの愛し方はそれぞれで構わないと思いますが、その愛を表現する場所や方法などはきちんとマナーやルールに乗っ取った上で行いましょうね!)
それでは、またどこかで。
ことば
こんにちは、高殿アカリ(@akari_takadono)です。
今日は「ことば」についてお話していきます。
なので、もしかしたら「こんにちは、遠藤さや(@END0_saya)です。」と名乗った方が正確なのかもしれません。
が、ブログ主は高殿アカリですので、このままで行きます。笑
私が詩を書き始めてから、今年で10年が経ちました。
その間に、遠藤さや名義でいくつかの詩雑誌に作品を掲載していただいたり、小さな賞をいくつかいただいたり、そんな些細ながらも色々なことがありました。
そして、この10周年という機会に「ことば」について、普段私が考えていることをまとめるがてら、約1ヶ月ぶりにブログを更新しようと思った次第です。
前置きが長くなりました。
さて、本題に入っていきましょう。
「ことば」というものは、普段の生活で誰もが1度は触れたことがあるであろう、有り触れた存在です。
見たり、聞いたり、感じたり。
その「ことば」との関わり方は様々ではありますが、基本的にはどこにでも転がっているものです。
そして、その「ことば」と1番遊ぶことの出来る手段が「詩」というものです。
それが楽しくて私は10年も詩を書き続けてきました。
そして、これからも続けていくのでしょう。
「ことば」には、様々な側面があります。
知識や情報を伝えるための「ことば」、物語るための「ことば」、そして遊ぶための「ことば」など、実に多様性を秘めています。
私は「ことば」が大好きです。
特に日本語の「ことば」が好きです。
50個の見た目と音を基本として、カタカナ、漢字、濁音、半濁音など実に多様な広がりを見せてくれるからです。
その中でも、聴く「ことば」と見る「ことば」がありますが、私は見る「ことば」が好みです。
文法として意味をなしていなくとも、見た目としての華やかさがあったり、どことなく哀しい気持ちにさせられたりする、それが見る「ことば」の魅力でしょう。
そういう「ことば」の組み合わせを、見たり創ったりすることが1番に出来るのが「詩」という媒体です。
例えば「一人部屋の/玩具が啼いて」(「六畳一間」より)だとか、「鼻歌交じりに/水たまりを超えた明日」(「梅雨の季節」より)といったものもあります。
自分の作品で特に好きな部分ということなので、あまり伝わっていないかもしれませんが。笑
「詩」は、その伝わらない「何か」を伝えようとするために、あるいは表現しようとするために、書かれています。
その「何か」を、人は「ポエジー」と呼びます。
ふと感じたあの時のその感じ。
こそあど言葉がたくさん詰まった、感覚や感性を「ことば」は自ら表現してくれません。
「詩」の「ことば」は、ゆっくりと深く生活に根ざしたその根底で、誰もの心にあるものです。
それを表現することは、飽くなき「ことば」への挑戦であり、同時に「ことば」との対話なのだと思います。
同じ文字を使っても、句読点ひとつで意味が変わる。漢字を変えるだけで印象が変わる。
国語では教えてもらわなかった言葉と言葉の組み合わせを実験する。
「詩」は、まさしくそのどの部分をとっても「ことば」自体へのクリエイトなのです。
それは何も難しいことではなく、有り触れた毎日の中にあります。
新聞の見出し、広告のキャッチコピー、新年の書き初め、物語るお話の中、絵本の読み聞かせ、パソコンのフォント機能、手書きのラブレター、商品のパッケージ、、、それではまた、どこかで。
黒飴とミントガム、それから祖父。
祖父はよくダンボール箱いっぱいに入ったお菓子を送ってくれました。
その祖父の妻であった私の祖母は、そのダンボール箱の中に茶封筒を入れる担当でした。
茶封筒の中には、いつも2万円と手紙が入っていました。
その手紙には、祖母の言葉という愛がたくさん書かれていました。
祖母からの愛はその文字から伝わってきました。
一方、祖父の愛の伝え方は少しばかり渋いものでした。
手当り次第に入れられた流行りのお菓子たちの隙間。
そこに申し訳なさそうに詰められていた、黒飴とミント味のガム。
これが祖父の愛のカタチでした。
キラキラ、ピカピカ光るポテトチップスやチョコレートの影に彼らはいました。
いつのダンボール箱にも。
毎回変わってゆくダンボール箱のラインナップでしたが、その2つだけはいつもそこに居たのです。
まるで私と弟を見守るみたいに。
そうです、私には弟が居ました。2人きりの姉弟です。
だから、黒飴とミント味のガムが私たち一人一人に与えられた祖父の愛だと考えてしまったのも自然な事だったのかもしれません。
ちなみに、茶封筒にそっと入れられた現金2万円は彼らの娘である母への愛だと、今も昔も思っています。
まるで海賊のようにダンボール箱の中身を喧嘩しながらも山分けするとき、私は必ず黒飴を弟にあげました。
その代わりにミント味のガムを引き受けるから、と言って。
そうです、愛とは重く、煩わしいものなのです。だから、嫌われやすくて優しいのです。
例えば、良い人止まりになってしまう当て馬のように。
祖父が死んだ時、私は死化粧をした祖父の隣でミント味のガムを噛みました。
それは、祖父の愛を噛み締めていることの自分なりの証明でした。
祖父は死ぬ前、病院のベットの上で私を見て、笑いました。ちっこいなぁ、と言って。
それから、ミルク味の飴を1つくれました。
やっぱり、お菓子が祖父の愛のカタチなのです。
そのときは、黒飴でも、ミント味のガムでも、なかったけれど。
祖父が死んだあと、祖父の蓄えていた大量の黒飴が出てきました。
大好きだったもんねぇ、と親戚たちが口にする中、私のミント味のガムはどこからも出てきませんでした。
お葬式の後、家に帰る車の中で姉弟揃って黒飴を口に含みながら、私は母に尋ねてみました。
じぃちゃんってさ、黒飴とミント味のガムが好きだったよね?
母は笑いながら答えました。
黒飴は好きだったけど、ミント味のガムは好きじゃなかったわよ。
私は驚き、再び尋ねます。
じゃあ、どうして昔、送られてきたダンボール箱の中には黒飴とミント味のガムが必ず入っていたの?
あーそれは、たぶん勘違いしていたのよ。
勘違い?
ガムならなんでも甘いと思ってたんでしょう。
真実を知るのは、いつだって遅いものです。
私にとって、祖父の愛は今でもミント味のガムなのです。
コンビニやスーパーのレジ付近で、祖父は私にいつだって優しく笑いかけてくれています。
魔女らしくない魔女。
魔女のお話でもしようか。
つい先程、はてなブログから「そろそろブログを書いてみませんか。」という内容のメールが送られてきた。
まんまと真に受け、私は魔女のお話をしようと思った。
丁度、目の前の席も空いたことだし、座りながらゆっくりと書いていこう。
魔女との出会いは、春の陽気に世界が浮き足立っていた頃のこと。
その魔女は、多くの魔女と同じように中年女性の姿をしていた。
(本当の年齢性別は、これまたほとんどの魔女と同じように不明ではあるが)
勇者が世界を救ったと安心したのも束の間、私は魔女に出会ったのである。
魔女は、濁った瞳をしていた。
濁りに濁ったその瞳は、ほとんど漆黒に近く、光の加減によっては濁っていないように見えることさえあった。
魔女と出会った時、私は直感的に彼女が魔女であると確信した。
大昔に出会った魔女のように「魔女」であることを誇りに思ってはいないようであった。
とは言え、魔女は魔女である。
怪しげな鍋をかき混ぜ、怪しげな言葉を使った。
私は魔女が何を考えているのか、全くもってわからなかった。
それは今でもそうである。
魔女が魔女らしくない魔女である、というのも私が混乱した原因かもしれない。
何にせよ、大昔に出会った魔女は、しわがれた声を持ち、箒に乗って夜空を飛んでいたのだから。
(ちなみにその魔女は、私の母のそのまた母の姉であった。つまり、私も...いや、これ以上は言うまい。)
そんな魔女らしい魔女しか知らない私は、この世界で出会った魔女が魔女らしくないことに違和感を覚えた。
男の胸では愛らしく懇願するのだろう。
安易にそう想像できる甘ったるい声を出すのも、魔女らしくはない。
とどのつまり、魔女らしくない魔女は、何故か私にだけもの言いたげなのである。
いつもいつも何かを言いたそうにしていて、魔女ならばぐさりと言ってもいいものであるのに、彼女は何も言わない。
そう!
全くもって、彼女は魔女らしくないのである。
つまり、私は何が言いたいのか。
魔女らしくない魔女が、私に何かを言いたそうにしていて。
その視線に晒される度、そわそわと落ち着かない気分になるのである。
「さようなら」のその言葉さえ、魔女は何かを秘めた瞳で見返すだけ。