空飛ぶ祖母と観覧車
祖母が死んだのは、幻覚のせいだった。
精神的に病んでいた祖母は、いつも何処か遠くを見ていて。
母はそんな祖母のことが苦手だったのかもしれない。でも、とても愛していた。
祖母はある夜、家の近くのせせらぐ川に飛び降りたことがあった。
その時に痛めた怪我のせいで、車椅子生活を送り、遂には死んだ。
祖母が川に飛び込んだのは、観覧車の幻覚を見たからだった。
観覧車のてっぺんで、私と弟が泣いていたらしい。
「おりられないよ。たすけて、えーん」
祖母は私たちを助けるべくして飛び降りた。
正義感の強いひとだ。
愛情の深いひとだ。
そして、その傷のせいで死んだ。
ロマンチックなひとだ。
そういえば、祖父に向けて狂ったように箱ティッシュを投げつける祖母の姿も、なかなかロマンチックだったっけ。
当時の大人たちは祖母の死の直接的原因を曖昧模糊なものとして私に伝えた訳だが、少なくとも私の記憶ではこういうことになっている。
今のところ、訂正する気もない。
本当の真実を確かめることすらしないだろう。
彼女が何という病名で、何という薬を投与されていて、何という部位に傷を負ったのか、なんてことは些細な事だ。
名称なんてものは大概においてどうでも良いことなのだと思うよ。
幼い頃、祖父母に連れていってもらった遊園地も今は廃園になっているらしい。
その事実を知ってから、私は時たまその遊園地へ遊びに行く夢を見るようになった。
もちろん、祖父母と一緒に。
そうして目覚めた朝には、祖父母が死んだ時には一滴だって流さなかった涙が、頬を伝う。
悲しいわけでも、苦しいわけでもない。
ただ、懐かしくて。
けれど、それは欺瞞に満ちた行為に他ならないんだよ。
夢の中にいた祖父母は、本当の彼らだったの?それとも、ただの空想?
何せ、私の記憶も日々書き換えられていて、記憶の中に住む祖父母ですら、果たして真実だったのかどうかすら怪しいのだ。
懐かしさに泣きたいから、泣いていただけなのかもしれないよ。
自分をそう窘めては、いつも無駄に無意味に虚しくなる。
そんな時、私はひとつの最終結論を導き出すことにしている。
もしもの話を考えるのだ。
確かめようのない、もしもの世界を。
だって、それが幸せになれる方法だから。
知らなくても良いことは、知る必要のないことで、それはきっと幸福の拠り所であるはずだから。
だから、たぶん、きっと。
祖母が川に飛び込んだ、あの夜。
祖母の幻覚の中で回りゆく観覧車は、きらきらのぴかぴかに光っていたのだろう。
それはそれは、どこまでも果てしなく綺麗な観覧車だったのだろう。
そうであって欲しい。
半ば言い聞かせるように、私は祈る。
祖母の見た世界はきっといつまでも色褪せることのない煌びやかな世界で。
祖母の見た世界は永遠の子どものまま、いつまでもいつまでも。
祖母は空飛ぶピーター・パンで、私は祖母に憧れるウェンディなのだから。
PRIDE月間🏳️🌈✨(頑張って「腐女子」をしていた私へ)
こんにちは。
高殿アカリ(Twitter → https://twitter.com/akari_takadono )です。
またまたね、PRIDE月間🏳️🌈✨に即して、ちょっとお話したいなぁと。
PRIDE月間関係ないだろ、って入りなんだけど、そこは我慢していただいて。
嫌ならもちろんブラウザバック推奨でお願いします。
昔、自分のセクシャル(現在はアセクシャル寄りのクエスチョニング)を認識するまで頑張って「腐女子」や「百合女子」をやっていた時期がありました。
もちろん、今でもBLやGLと呼ばれるジャンルの作品は好きですが、「好き=腐女子・百合女子」ではないのだな、と実感しています。
というのも、BLだから好き、GLだから好き、というわけではなく、NLものに対して思う「好き」と全く同じ「好き」だったからです。
基本的に二次創作より一次創作のお話が好きだったのも関係していると思います。
あの作品のこのキャラクターが好き、というよりは単純にお話として面白いかどうかを重要視していました。
さらに、お話として面白ければ、それがハッピーエンドでもバッドエンドでも、どんな属性持ちでも私はあまり気になりませんでした。
二次創作物においても、パラレルワールドの世界、恋愛ノベルゲームでのルート分岐のように思っていましたので、どちらが攻めでどちらが受けでということはあまり関係ありませんでした。
もちろん、原作とも別の世界のお話だと思っています。故に、キャラ崩壊も、女体化も、大丈夫でした。
カップリングが好き、というよりは、この作者様の描く二次創作物が好き、っていう感じでしたね。
つまるところ、全くもって地雷のない人間だったのです。
かつて一度、M子ちゃんの地雷を踏んだことがあって、その地雷への拒絶があまりにもエネルギッシュだったことに衝撃を受けたことがあります。笑
私とM子ちゃんの地雷戦争にまで発展してもおかしくはなかったのですが、私自身に地雷がないことが幸いしたのか事なきを得ました。笑
M子ちゃん自身、強制しない性格なのも良かったですね。笑
そこで、私はいつも考えていました。
私は本当に「腐女子」なのだろうか、「百合女子」なのだろうか。
好きであることは間違いようがないくらい好きだけども、それが無くても別に生きていけるしなぁ、という気持ちもありました。
最終結論として、私のセクシャルが関係しているのだと気づきました。
アセクシャル(無性愛者)寄りではあるもののクエスチョニング(敢えてセクシャルを決定しない)であるからこそ、BLやGL、NLも含めて「好き」なのだと。
「恋愛」という関係性に敬意と憧れがあるからこそ、そこにある「性別」や「キャラクター」にはあまり拘りがなかったのだと思います。
「同性」でも「異性」でも、唯一の人がいる、愛する人がいる、その関係がとても尊くまた素晴らしいものであるのだ、と信じたいのかもしれません。
異性愛を描く少女漫画がある種のファンタジーであるのと同じように、同性愛を描くBLやGLと呼ばれる物語もまたファンタジーであるという認識のもと、それでもそのファンタジーの世界で存在する登場人物たちがみんな等しく「生きている」のならば、それほど面白くて楽しくて、悲しくて苦しくて、その全てが愛おしいなぁ、と思います。
それではまた、どこかで。
PRIDE月間🏳️🌈✨(マジョリティの「みんな」へ)
6月はPRIDE月間。
せっかくだから、LGBTQ+について思ってることを徒然なるままに。
LGBTQ+に関する記事や講演はたくさんあるのにも関わらず、日本での認知度がまだまだ低いのは何故?
どうやらInstagramでは、日本人がPRIDE月間であることを知らずに虹色が可愛いからって理由でハッシュタグを付けているらしいよ。
ちょっと怖い。無知って可愛いけど残酷だよね。
認知度が低いのは、つまるところ当事者意識がないからだと思うのよね。
当事者じゃないもん。っていう意見もあるけど、そこをちょっと突いてみたい。
LGBTQ+自体に関する記事は本当に腐るほどあるから。笑
当事者じゃないって意識はたぶん、「名前がないから」ってとこから来ると思うのよね。
私達はマジョリティ。多数側で、だから「普通」で、「みんな」と一緒で、「特別」な名称はないよ。
って思ってるからなんじゃないかなぁ。
そんなことないよ。
あなたたちにも名称はあるよ。
たとえば、性自認が一致していない人に「トランスジェンダー」という名称があるように、性自認が一致している人の名称は「シスジェンダー」。
たとえば、性自認と同じ性の人を好きになる人の名称が「ホモセクシャル(同性愛者)」なら、性自認と異なる性の人を好きになる人の名称は「ヘテロセクシャル(異性愛者)」っていうわけ。
だから、世界のマジョリティ側の名称は「シスジェンダーのヘテロセクシャル」ってだけ。
ここから先は完全に私の考えになるんだけど。
LGBTQ+の「+」には、私みたいなAセクシャルやクエスチョニングのことも含まれているだろうし、パンセクシャルやXジェンダー、DSD(性分化疾患)その他多くのセクシャルが含まれている。
そして、その中にはシスジェンダーも、ヘテロセクシャルも含まれていると思っている。
変わらないよ、マイノリティもマジョリティも。
あと、セクシャルやジェンダーは変わってゆくものだから。
今はマジョリティかもしれないけれど、それがずっと続くかは分からないし、あなたはそのままかもしれないけれど、パートナーもそのままかどうかは分からないし。
本当はね。
誰にもなんにも分かってないんだよ。
Aセクシャル含め、グレーセクシャル、デミセクシャル、AロマンティックなどはLGBTQ+の中でもまだまださらに認知度が低いし、なんなら名称すらネット用語だからこれからどんどん変動していくだろうし。
私の知らないセクシャルもたくさんたくさん、あるだろうし。
LGBTQ+だから何?
って思うかもしれないけれど。
名前がある、って素敵なこと。
PRIDE月間がある、知ってもらえる、って素敵なこと。
自分の人生に誇りを持つために、必要不可欠なことなんだよ。
だからさ。
たぶん、他人事じゃないんだよ。
誰かを愛するとか愛さないとか、そういう話でもあるし、そういう話ではない気もするし。
たぶん、生き方の問題だから。
あなたがあなたである為に。
わたしがわたしであれるように。
名前があって、知ってもらうチャンスがあって、そうやって初めてマジョリティと同じ声の大きさを獲得することができるんだよ。
知ってもらう為、微力ながらつらつらと。
それでは、また何処かで。
※DSDに関しては、LGBTQ+とはまた異なる側面を持っています。
「さのさのこ」として生きてたりもする。
お久しぶりーふ。
高殿アカリ(Twitter → https://twitter.com/akari_takadono )です。
今回はまたまた、ゲーム実況について語っちゃおうかな〜と思って、久しぶりにこのブログを書いております。
もうそろそろゲーム実況を始めて8ヶ月が経とうとしています。
相変わらず、少数精鋭部隊の「さのさのこ」です。笑
※ゲーム実況はさのさのこ名義(Twitter → https://twitter.com/Sanoko_Sano )でやっています。
最近は「さのさのこ」である時間が尊い、という理由でゲーム実況をやっていますねぇ。
ひとつのコンテンツで何度も視点を変えて楽しむ!っていうのが中々私の得意分野なのです。笑
「さのさのこ」として出会った人、やりたかったゲーム、やりたかったこと、が出来ている今!つーのがね、なんと言っても幸せなわけですよ。
再生回数?
登録者数?
そんなもん、関係ありません!笑
もちろん、増えてくれるのはとても嬉しいし、ありがたいし、グッドボタンを貰えたら嬉しいし、ありがたいし、反対にバッドボタンを貰ったら悲しい。
でも、それが全てじゃないよね、って思える。
詩を書いたり、小説を考えたり、弟とゲームをしたり、M子ちゃんと遊んだり、映画を見たり、ゲーム実況をしたり、それを見てくれている人がちょこっとだけいたり、ご飯を食べたり、眠りについたり、ちょっとだけ真面目に働いてみたり。
そんなことをして、やりたいことをやりたいようにやって、死んでいけたら幸せだよね。
その過程で、私は「高殿アカリ」になったり、「遠藤さや」になってみたり、「さのさのこ」として生きていたり、していること自体が壮大なごっこ遊びなんだなぁ。
たのしくてたのしくて、仕方がない。
あと、ゲーム実況をすることはかなりの長期戦を覚悟していて、その過程でYouTubeは衰退するかもしれないし、媒体を変えることはあるかもしれないけれど、「さのさのこ」自体をなくすつもりはないから、毎日続けていられるというのはあるね。
これから死ぬまで「さのさのこ」という私の一部はあり続けると思う。
そして、「さのさのこ」という世界観を提示し続けることに意味があるんだよね。
YouTubeにおけるチャンネルの色というものがあって、創作として言うならYouTubeはチャンネル自体がひとつの作品だと考えていて。
だからこそ、そこには必ず「飽き」というものが来る。
その視聴者様の「飽き」の隙間に「さのさのこ」の世界観をうめ込められれば良いのかな、と。
初見さんが来ると、味変にいかがかしら?って気持ちになる。笑
そのくらいの方が気楽にできるし、ストレスもないし、クオリティを上げなくていい免罪符になるし、良いこと尽くし!やったね!!笑
プロの味に飽きたらどうぞ、みたいなね。笑
そして、「さのさのこ」に飽きたら、小説はいかが?詩はいかが?
「高殿アカリ」も「遠藤さや」もあるよ〜って手招きしたい。
反対もまた然り。
ペルソナ(顧客層)を限定せよ、っていう定石に真っ向から対峙してみたい今日この頃。
負けたまま寿命を迎えてもいいじゃない。
笑って語ってくださいな。
それではまた、どこかで。
ばいばーい。
長野県の「風」に吹かれて。
どうも、どうも。
高殿アカリ(Twitter → https://twitter.com/akari_takadono )です。
実はこの前、長野旅行に行ってきたんですね。
それも大好きな美術作家のeriさん(Twitter → https://twitter.com/silent_letter_ )の二人展にお邪魔するためだけに。笑
二人展『感覚装飾店8』のテーマは「風」。
扉を開けると何となく春の風を感じました。
二人展の相方・重政梢さんのハンドメイドアクセサリーと、eriさんの絵や小物が世界の調和をうまく創り出していて、私はまた新しいeriさんを知ってしまったのです。笑笑
少し狭めの会場だったのと、お客様がたくさんいらっしゃったので、あまり長居することは出来ませんでしたが、相も変わらず素敵な空間でした。
私は普段、アクセサリーを身につけないので、重政梢さんの作品は瞼に焼き付けるだけだったのですが、一緒に付いてきた友人のM子ちゃんが髪留めに付ける装飾品を購入していました。
重政梢さんの作品は、どれもこれも繊細なアートであると同時に、アクセサリーという側面から日常生活にも上手く溶け込むように作られているのだと思いました。
作者の愛を感じますよね。
(※個人の意見です)
eriさんの作品では、主題である「sillent letter」をモチーフにした封筒だとか、マグカップの跡を絵の具で表現した板だとか、そういう本質に触れるようで触れない作品もあったりして、楽しかったです。
これらの作品もまた、色んな形で私の日常の中に溶け込ませられるので、私としてはとても嬉しい限りでした。
今回のテーマは「風」ということでしたが、その裏のテーマとして「日常」なんてのもあったのかもしれませんね。
朝、扉を開けた瞬間、窓を開けた瞬間、感じる空気というものがあって。
私はそれを大切にして生きてきたのですけれど。
今回の『感覚装飾店8』では、そんな言葉にもならないような、どこか懐かしいような、そんな空気が作品たちの間を流れていたり、
していたのかなぁ。
長野旅行から帰ってきて約2週間が経ちましたが、ふとそんな風に思います。
また、タイミングがあれば伺いたいです。
お忙しい中、お相手をしてくださったeri様、重政梢様に多大なる感謝と敬意を込めて。
本当にありがとうございました!
それから、長野旅行中にM子ちゃんと撮ったラジオも貼っつけておくので、お暇があればご覧下さい。
それではまた、どこかで。
【YouTube】
第2話 さのこ, M子のお喋りラジオ【長野県と早口言葉】
「人間」として生きている
みなさん、こんにちは!
高殿アカリ(Twitter → https://twitter.com/akari_takadono )です。
今回は『ここは、おしまいの地』で講談社エッセイ賞を受賞されたこだま様のデビュー作『夫のちんぽが入らない』のレビューブログです。
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少し前に話題になっていた『夫のちんぽが入らない』を読破。
なかなかヘビーな内容だった。
様々な角度から描き出される「普通」という概念から解き放たれていくまでの1人の女性の人生が綴られている。
文体が読みやすいのはもちろんのこと、講談社文庫の活字の大きさ、行間の幅、余白部分などがより一層この私小説を読みやすくさせているのだろう。
とにかく、読みやすかった。
作者に夫のちんぽは入らないのに、読者に作者の言葉は入ってくる。なんて皮肉。
この作者さんは真っ当に「人間」をしている人なのだなぁ。
もし私がこの私小説の当事者だったら、自分可愛さあまりに全てを投げ出して、全てを捨てて、誰とも関わらない生き方を選ぶだろう。
何故なら、おひとり様で生きることが「幸せ」であると、20代にしてなんの歪みもなく素直に屈託なく、そう思っているのだから。
そんな私からしてみれば、「普通」にこだわること、人と向き合うこと、人を愛すること、自分を許さないこと、その作者の選んだ行動がどれもが眩しく見えた。
「普通」にこだわるのは面倒くさい。
誰かと向き合ったり愛し合ったりするのも辟易する。
自分を許さないなんてとんでもない!
そもそも自分の行動に不正解なんてない。
「不正解」と評価されることはあっても。
と、私はこんな風に毎日を自由気ままにのんびり暮らしている。
他者からぎりぎりの及第点を貰う暮らしぶりというところだろうか。
しかし、それはただの「私」を生きているだけであり、「人間」を生きているわけではないのだよなぁ、と最近よく考えたりもする。
「人間」らしくある為には、この私小説のように他人を真っ当に愛することが必要なのだろうなぁ。
出来る気もしないし、やる気もまたないけれど。
「人間」として生きること、その全てへの葛藤が込められた作品なのかもしれない。
それでは、またどこかで。
「ダルちゃん」は私であなた。
みなさん、こんにちは。
高殿アカリ(Twitter : @akari _takadono)です。
今年も始まってしまいましたね、2019年。
嬉しいような寂しいような、年始はいつもそんな気分にさせてきます。
今年も何卒宜しくお願い申し上げます。
というわけで、年始早々とても素敵な作品に出会えたので、紹介がてら感想を述べていきたいと思います。
2019年、幸先が良いですね(^ ^)
今回、私に深く深く突き刺さった作品は、資生堂の季刊誌「花椿」(公式サイト : http://hanatsubaki.shiseidogroup.jp )のwebページにて公開されている漫画『ダルちゃん』(『ダルちゃん』の掲載ページ : http://hanatsubaki.shiseidogroup.jp/comic2/ 公式Twitter : @dullchancomics)です。
はるな檸檬さん(公式Twitter : @haruna_lemon )が描かれたこの作品は2018/12/06に小学館より刊行されました(全2巻)。
この作品は、丸山成美こと「ダルちゃん」が「普通」のOLとして擬態して生きている日々を描いています。
「普通」の擬態が剥がれた時、ダルちゃんは一冊の詩集と出会います。
それがダルちゃんを詩書きの道へと、ひいては本当の自分へと導いていきます。
「普通」ってなに?
「恋情」ってなに?
「友情」ってなに?
「創作」ってなに?
そんな疑問と擬態と疑心とをぐるぐるミキサーにかけて、美味しくはないけど、ほろ苦くて思わず泣いてしまうような、幸福のスムージー。
「愛する」ってどういうこと?
「わたし」ってどういうこと?
それはきっと『ダルちゃん』の中に...。
そんな作品です。
以下、感想となります。
ちょっぴりネタバレになってしまうかもしれないので、ご注意を。
*******************
『ダルちゃん』という作品を読んだ。
愛おしくて切ない、痛くて哀しくて虚しくて、そしてやっぱり愛おしい。
そんな感情が私の中を駆け巡った。
850円×2冊、合わせて1700円也。
それだけの、いいやそれ以上の価値がある作品だった。
私は詩を書いてもう10年になるが、それだけ長く詩を書いていると、上手い下手はともかく、どうしても「書く」ということそのものがただの手段になり、詩を書きたいと思った一番初めの気持ち、原初の記憶を忘れがちだ。
なまじ、単語としての「言葉」の文字列を知識として知っている分、自分の生身そのものを置いてけぼりにしてしまうのだ。
その結果、体験のない「言葉」だけが虚しく白紙の宇宙を彷徨う。
この『ダルちゃん』という作品は、そんな私を戒めるみたいに、慰めてくれた。
技法や言葉に囚われてしまいがちな詩人にこそ、是非とも読んでいただきたい作品の一つかもしれない。
作品の中で裸になること、本当に真摯にそれを行うには、自分の中に眠る覚悟と勇気と孤独と闘わねばならないのだ。
その自らとの戦いをもう一度見つめ直す良い機会となった。
そして、このような感覚を見失いそうになる度に、これから私は何度も何度もこの作品へと還っていくのだろう。
そんな予感がしている。
ダルちゃんが詩を書くことをやめた時、私にはその未来が見えた。
かつては私もそうなったときがあったから。
だから、その先のページを私はいつまでも捲ることが出来なかった。
吐き出せないことが何よりも辛くて、何よりも苦しくて、まるで何者にもなれなかった死人のように。
たかが言葉だ、たかが詩だ。
それでも、それが「わたし」のすべてなのだ。
何者にもなれない「わたし」を救ってくれたのはたかが言葉だ、たかが詩だ、そこに潜む感情で、それはつまり私そのものだった。
言葉と共に歩む未来がどれほど熾烈な環境だったとしても、私は筆を握るだろう。
まっさらな白紙の上に黒の線を走らせるだろう。
それが誰かの王国で罪人となる行為だったとしても、私は私をやめることは出来ないのだから。
......と、これ程までに同化し、同調し、ベタ惚れしている『ダルちゃん』という作品であるのだが、2つほど納得いかない点もあったりする。
一つは、主人公のダルちゃんが大した詩の勉強をすることもなく、多くの詩を読むこともなく、ほとんど感性だけで素敵な詩を書いていることである。
このことは、『ダルちゃん』が話題となっている今、詩や言葉に対する誤解を生みかねないし、何より私はその才能が嫉ましい。笑
二つ目は、ダルちゃんの書いた詩に対して驚くほど直ぐに結果が伴っている点である。
もちろん、結果が出る出ないという観点から作品が描かれていないからこそのストーリー展開なのだろう、ということは想像がつく。
しかし、これもまた詩壇というものに対する誤解を生みかねないし、私は何よりその才能が嫉ましい。笑
(※個人的備忘録 : 私の中には「詩壇」そのものの存在がファンタジーだという認識もある)
要するに、ダルちゃんには才能があるのだった。
そのことが物語を動かす要因にもなっているし、私の劣等感や嫉妬心、競争心までもを駆り立ててくるのだ。
ダルちゃんには負けてられない!そんな風に思う私がいた。
ダルちゃんはきっとこれから、私の良きライバルとなってくれるだろう。
そして最後に、ダルちゃんが取り憑かれたものが詩や言葉であったことに私は感謝したい。
作者がダルちゃんに詩を書かせたのには何か理由があったのかもしれないし 、なかったのかもしれない。
作者が詩を書いているのかもしれないし、作者にお気に入りの詩集があるからかもしれないし、ただの思いつきか、夢の中でお告げがあったのかもしれない 。
まぁ、きっかけは何でもいい。
とにかく、ダルちゃんが詩を書いた、それが漫画になった、そしてその漫画を多くに人が読んでいるということ。
詩人でも詩書きでもない多くの読者が、間接的であれ「詩」に触れているということ。
そんな現象を『ダルちゃん』は引き起こしてくれている。
この場を以て、改めて感謝の意を示したいと思います。
作者のはるな檸檬様、並びに資生堂様、本当にありがとうございます。
それではまた、どこかの彼方で。